読書について

昨日の記事の中で、読書をテーマに別の記事を書くと書いた。しかし、いざ書こうと思うと、書きたいことがどんどん広がっていき、その上またしても理論の穴が出てきてしまった。

これもお蔵入りかなと思ったのだが、考えてみればオステオパシーや臨床に直接関係している重要なテーマではない。一般論として語ろうと思えばかなり複雑になってしまうが、自分のこととして考えればそれほど複雑な問題ではない。

そういうわけで、あまり深く掘り下げずに書こうと思う。いろいろとツッコミどころや腑に落ちない点があると思うが、コメントしてもらえればお答えしますということで。

哲学者のショーペンハウエルは、本を読めば読むほど馬鹿になるというようなことを言っていた。しかし、本を読むなとは言っていない。要は、読み方の問題である。

彼の言っていることを要約すると、本を読んでいる間はその著者の考えに頭を支配されて、自分の思考が停止する、自分自身で思考しなければならないということである。

私自身が本を読む主な理由は4つある。娯楽や暇つぶしのための読書はしない(余裕がない)。

1.情報を得る

私はショーペンハウエルの言う「自分の頭で思索する」ということに賛成であるし、そうしたいと思っている。しかし、思索するにも材料が必要である。思索の筋道が正しくても、その前提となる理論やデータが間違っていれば正しい答えには辿り着けない。

2.質問や視点を得る

昨日の記事に書いたことだが、普段自分が自分自身にしないような質問や、自分が普段見ないような視点に気付くためである。本を読んでいてそういったものに出会ったら、オステオパシーでは?自分の臨床では?と考える。そうすることによって見えてくることがいろいろある。

3.思索の結果を得る

これはショーペンハウエルが否定している部分である。つまり、自分の考えではなく、他人の考えである。しかし、自分よりも優れた知性が長い年月をかけて至った結論、あるいは自分では経験できるかわからないような非常に可能性の低い偶然などによって至った結論で、なおかつ多くのポジティブな結果を出し、時の試練に耐えているものであれば、それらを疑ったり否定したりするための時間と労力は、自分で出した結論に見合うものだろうか?

4.語彙や表現を得る

これは、主に翻訳家として必要だと思っている部分であるのだが、思索とも無関係ではない。構造主義を勉強していればわかると思うが、人は言語によってものを考える。実際には、思考が言語を支配しているのではなく、言語が思考を支配しているのだ。

何事も、最も大切なのはその目的にかなうことである。読書の目的は人それぞれである。私の場合、読書は主に思索のために行うものである。この記事が参考になるとしたら、私と同じように思索がしたいと思っている人である。皆がそうあるべきだとは思っていない。私だって、余裕があるのであれば娯楽のために小説とか読んでみたいとも思っているのである。
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ここに書かれていることは一人のオステオパスの個人的見解であり、オステオパシーの標準的な考えとは限りません。批判や意見は大歓迎です。

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